前島 誠『不在の神は〈風〉の中に』という本を読む。<o:p></o:p>
それによると、モーセに対する神の自己紹介、「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14)という日本語訳には重大な問題があり、それは動詞の時制が現在形に訳されてしまったことだそうだ。<o:p></o:p>
だけど、原典の古代ヘブライ語には、もともと現在形は存在していないそうだ。<o:p></o:p>
一般に使用される〈過去・現在・未来〉という三時制がヘブライ語にはなく、すべての行動の様態を基準にして考え、わざの内側から生み出される時としてとらえるそうだ。<o:p></o:p>
外側から人間を規制する枠ではなく、むしろわざの中にあるという感覚。<o:p></o:p>
そのわざが、完結しているかいないかによって、完了形と未完了形の二つの「相」に分かれるだけだそうだ。<o:p></o:p>
原文の「EHYH・AShR・EHYH(エヒイェー・アシェル・エヒイェー)」を見てみると、エヒイェーは英語のbe動詞に当たり、活用の相は一人称単数・未完了形だそうだ。<o:p></o:p>
未完了形は、まだ完了していない行為、くり返す行為、継続する行為の始まり、さらに願望、可能、命令の意味に使用されるそうだ。<o:p></o:p>
したがって、日本語に訳すなら「ある」ではなく、「あるだろう」とする方が順当で、神の自己紹介は「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」となるそうだ。<o:p></o:p>
アシェルは関係代名詞。<o:p></o:p>
こうなるとかなり受ける印象が違うな~。<o:p></o:p>
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