下條信輔著『まなざしの誕生 赤ちゃん学革命』より引用。
「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名な寸言は、もともとは哲学者デカルトが、神の存在を証明するために使ったロジックだそうである。
そのようなむずかしい理屈は別としても、「自分の存在について疑いをいだけるという事実それ自体からして、自分(の心)の存在には疑いの余地がない」という議論は、わたしたち現代人にとっても、それなりに説得力がある。
ただし、これはあくまでも自分の心についての話であり、他人の心となると話はまったく別になる。「相手(の心)を買いかぶらない」還元主義の考え方は、「心」などという目に見えない、正体不明のものをなるべく無視して、脳や神経の生理的な活動や、条件反射などに置きかえて考えようとする。
この還元主義の傾向は、今日、専門家だけではなくふつうの人びとの常識にも、科学的でモダンな考えとして、かなり浸透(あるいは汚染?)しているらしい。それは、たとえばこのごろの「早期教育」ブームの中で、くり返し登場してくるキャッチフレーズをみていても、よくわかる。――「天才をプログラムする」、「右脳教育」、「脳をきたえる」等々。
少し理屈っぽくいえば、他人の心についてのこの疑似科学的な還元論の風潮に押しまくられて、自分の心についての確信に満ちた考えは疎外され、矮小化されて、「心」のイメージの片隅に追いやられてしまっているというのが、今日の状況かも知れない。
ここで何よりも困るのは、「自分の心」と「他人の脳」という、このふたつの極端な立場のどちらをとっても、自分の心と他人の心との根本的なつながりが見えてこないということである。ところが、この本をここまで読んでこられた読者ならもうおわかりだろうと思うのだが、赤ちゃんの心の発生の現場も、まさにこのつながりの生まれる地点にあるのだ。
このような理由から、新しい心の発生学は、時代の人間観=「心」のイメージに変更をせまる。その新しいイメージをわかりやすくするために、表情(相貌)の認知の例を考えてみよう。
う~ん。
「われ」とか「思う」とか「在る」などという言葉を使うためには、まず他人からそれらの意味を学ばなくてはならないのだったなあ・・・。
一人では人間にはなれないところに真実があるのだろうなあ・・・。
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